コンテンツ文化史学会会長、吉田正高先生の逝去を悼んで
先日、コンテンツ文化史学会の会長である東北芸術工科大学の吉田正高先生が48歳の若さで急逝されました。弊社はコンテンツ文化史学会の設立当初から賛助会員として本学会に関わり、学会誌の編集作業などをお手伝いしてきました。
訃報が届いたのは4月1日のことでした。昼間届いたメールを確認するのが遅れ、夜、人もまばらな京王線の上り電車の中で訃報に気づきました。あまりに急なことに呆然とし、翌日になってようやく、なにかエイプリルフールでだまされているのではないかと頭の片隅で願いながら、恐る恐る返信を返したほど現実感のない報せでした。
コンテンツ文化史学会の前身は、東京大学に期間限定で設けられていた東京大学情報学環コンテンツ創造科学産学連携教育プログラム(長いので、以下「コンテンツ創造」)で開講されていた「コンテンツ文化史」という授業です。
ゲームにせよアニメにせよ、コンテンツは「制作」と「製作」に分かれています。このうち「製作」を重視して教える試みを行っていたのがコンテンツ創造でした。クリエーターやアニメーターがやっている仕事は「制作」。それに対して、資金調達をしたりビジネススキームを組んだりするのが「製作」です。この2つはいわば車輪の両軸、どちらがなくてもコンテンツは成立しません。
しかし当時は(もしかすると未だに)、専門学校か芸術大学などの「制作」を教える学校しかない時代。総合大学で「製作」サイドの人材育成を図る試みは我が国においては類例がなく、先生も教わる生徒のほうも暗中模索の状態でした。コンテンツ創造の属していた情報学環自体が立ち上がって間もない頃で、研究科自体も黎明期特有の高揚感に包まれていたのをよく覚えています。その中心で学生と向き合っておられたのが、吉田先生でした。私は最後の4期生で、情報学環(学際情報学府)に通いながら受講していました。今から12年くらい前のことです。
いつの時代も先達者の悩みは「最近の若い人は」という話になるようですが、それはこのときも同じであったようです。
“コンテンツプログラムに参加する意欲がある、ということは、当然のことながら履修生の多くはコンテンツに対して好意的であり、 それぞれ知識もあるのだが、その「知識」の時間的な幅は極めて短く、長くても10年、短いものでは、わずか1〜2年程度であった。”(吉田、2009)
ただし吉田先生の場合は、それをニヤニヤと半笑いでおっしゃられるので、学生の側も気後れせずに飛び込んでいけたのでした。決して、ネガティブな意味ではなく、ポジティブに「Welcome!」と全力で扉を開いてくれたのが吉田先生です。多くの学生が、おそらく最も活き活きと受講していた講座のひとつが、コンテンツ文化史の授業でした。
制作者、あるいは製作者にとって、そして研究者にとっても、自分が参照できる「点」の数を増やしていくのは非常に大事なことです。過去に生み出されてきた点に触れ続けると、どこかで点がつながり、自分なりの線が引けるようになってきます。研究者は言うまでもないですが、実務者も業界で長く生き残っている人は、そうやって作り上げた自分なりの網の目を持っていて、「制作」にせよ「製作」にせよ、自分の携わっている作品を、その網の目を駆使して過去の類似作と相対化し、新規性を見出して作品として成立する強度まで叩き上げ、活き活きとその価値を示してみせます(ときにはそれが、強烈な個性を持ったクリエーターが産み落としてしまった物体Xだったりするので、解りにくいのですが)。
しかしその点を増やすために、自分の知らない時代のコンテンツを摂取し咀嚼するのは、第二外国語を学ぶのと同じくらい大変なことです。当時の当たり前(たとえば、サザエさんのマスオさんは帰還兵である、だとか。変身しない魔法少女の斬新さだとか。)は、今の当たり前ではもはやないか、既に文化的コードとして織り込まれてしまい、自覚できない。ですから、そこには何がしかの教導役が必要で、当時の吉田先生はその役を自ら買って出てくださったのだと思います。当時の受講生の多くはコンテンツ業界に飛び込み、今もアニメ、ゲームなどの第一線の現場で活躍しているのですが、その礎に、このときの講座は確かに息づいているように思います。
そして、講座に呼ばれるゲストの側にとっても、あれはとても珍しい場だったのだと思います。あの頃はサイフォンはまだなかったので、私個人がという話になりますが、当時から青二プロダクション附属俳優養成所の青二塾さんと親しくしていたこともあって、一度、青二の創業者の方々を「コンテンツ文化史」にお招きしたことがあります。ひょんなことで吉田先生に「声優さんのお話聞きたいですか?」とお話したところ、「いいね、聞くべきだよね!」とすぐに段取りを組んでくださったのでした。東大にきてくれたのは、当時青二の相談役だった黒田さんと、青二塾の塾長を務められている北川さんでした。業界の上も下も分かっていない私はとても気軽にお呼びしたのですが、声優という職業を必死に確立してこられた青二のお2人にとってはそうではありませんでした。口々に「東大に呼ばれて講演する日がくるなんて」としきりにおっしゃられていたのを覚えています。そのとき撮影した写真は、青二塾の入塾案内に記念に掲載されています。弔辞をお聞きして気づいたのですが、コミケの準備委員会の方々、横えびさん、その他あのプログラムをきっかけに知り合い、その後の展開が始まった方々というのは数多くいらっしゃったことでしょう。あの授業が、そうした結節点になった例は他にもたくさんあると思います。
さて、私たちが作り上げる「網の目」には盲点もあります。それらが今を生きる我々の「同時代的な認識」に他ならないにも関わらず、ともすると、理路整然としていて、連続性があり、絶対的な「歴史」としての強度を昔から持っているのだと思ってしまうのです。これは歴史の連続性や非連続性といった言葉で、しばしば説明されます。
“同一の言葉や観念がしばしば再使用されるが、もはやそれが同じ意味をもたず、同じような仕方で思考されもしないし、組織されることがない”(ジェフリー・バッチェン、1997)
たとえば鳥獣戯画は確かに「漫画的なもの」で、私たちはそこに今のコンテンツに通じる「連続性」を感じ取ってしまうのですが、それは一種の誤謬です。他の例を挙げれば、カメラ・オブスキュラを用いていたフェルメールに、チートをしているような後ろめたさを感じる必要はないのに、研究者ですら近年まではそのように捉えていたことが指摘されています。
そうした勘違いを私たちはしばしば起こしがちです。だからこそ、その「変容」の連続性と非連続性とを捉えようとする歴史学の試みに価値があり、それはコンテンツにおいても同様に必要な試みであるにもかかわらず、当事者の「オーラルヒストリー」や「批評」の域にのみあり、歴史学の一分野として成立していない。それが、「コンテンツ文化史」という授業を「コンテンツ文化史学会」として、つまり研究領域として立ち上げようとした課題意識のひとつであったように思います。
加えて、個人的にコンテンツ文化史学会に関わり続けている理由はなにかなぁと考えてみたのですが、そのひとつに、実務者として時折感じる「砂の上に立っている感覚」というのがあると思います。実務者の「網の目に基づいた語り」は、ときどき盛大に間違えるか、自分のプレゼンスを発揮するためのマウンティングとして機能し、最悪の展開としては時代遅れの「オジサン語り」になっていることがあり、しかし魅惑的なのです。(経験上、「共通言語としての学園モノしか売れない」みたいな断定は、ほぼ間違いなく妄言ですが、難解な世界をシンプルに理解した気になれる。)そんな危機感が、どこかにあります。
学会設立当初、コンテンツ文化史をベースにしているという、その成り行きから会長に就任された吉田先生は「とりあえず俺がやるけど、10年したら会長は辞めるから」と仰られていたように記憶しているのですが、その10年目を迎える今年、まさか急逝されるとは、ただただ呆然とするばかりです。改めてご冥福をお祈りするとともに、「コンテンツ文化史」を綴っていくというご遺志を本学会が果たし続けていけるよう、末席ながらお手伝いが続けられればと思っています。
引用文献
- 吉田正高『コンテンツ文化史のあゆみ』コンテンツ文化史研究創刊号, 2009年, p5.
- ジェフリー・バッチェン著、前川 修・佐藤 守弘・岩城 覚久訳『写真のアルケオロジー』青弓社, 2010年, p11.
青二塾のエピソードを4月10日に追記しました。ほか、誤字脱字を訂正しています。